毎週金曜日の夜7時から、はりまや橋商店街で夜学会が開催される。テーマは「国とは何か」「民主主義とは」「お金」など政治経済を中心に主催者、伴武澄がほとんど語る集会である。
すでに300回。始まったのが2015年1月。商店街の空き店舗活用が念頭にあったが、あえて「復活させた」といいたい。
原点は高知市土佐山西川に山嶽社跡を見つけたことにある。その地はいわば「土佐の山間」といっていい。
小さな居宅は板垣退助の秘書で、萱野長知とともに孫文の中国革命に尽くした和田三郎の生家でもある。
自由民権運動の影響を受けた医師・和田波冶・千秋父子が自宅を提供し寺子屋をつくったのが始まりで,後に門下生の高橋簡吉が遺志を継ぎ,民権結社山嶽社を結成し,県下各社と連携をとりながら発展させた。
明治15年11月12日、東京を追われた民権家、総勢2000人が巻狩大懇親会と称して、この地に集ったこともある。
2000人が食糧とテントをかついでやってきた。政治的デモが認められなかったため、「巻狩」と称して気勢を上げたのだ。
「自由は土佐の山間より出ず」という有名な言葉はひょっとして、この巻狩に原点があるのではないかと思っている。7日後、今度は香美郡赤岡の海浜で、「旧海南自由党魚漁大懇親会」も開かれ、中江兆民らも参加している。
高知の「立志社」は、2隊に分かれて山越えで野宿しながら会場へ到着したという。
高張提灯や旗を掲げ、銃や槍、薙刀(なぎなた)、野太刀などを携え、ま た毛布や食料などを背負った集団が山を越える姿は異様に違いない。
現在でも15キロの山道を2000人のデモ隊が越えるという光景は想像できない。
高知の立志社を中心に国会開設に向けた自由民権運動が燎原の火の如く全国に広まっていた。
当時、高知県には190もの夜学会があったとされる。議論の場が各地で出現し、県内で平均して2日に1回、夜学会が開かれていたと考えれば、歴史の壮観であろう。
高知は決して酒ばかり飲んでいたのではなかった。
自由民権結社「山嶽社」跡の石碑文
山嶽社は、土佐山村の民権結社であり、当村からは多くの民権家を輩出している。前身はこの場所で和田波治、千秋父子が始めた寺子屋的なもの。
その後、門下の高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党成立の頃、民権結社に発展、名称を「山嶽社」とし、明治22年2月26日以降「山嶽倶楽部」と改めた。
土佐山村は明治15年11月12日に県下の民権家、総勢2000人が桧山で巻狩大懇親会を行ったことや、秩父事件の指導者、落合寅市が高橋簡吉の家で匿われたことでも知られている。
現在、当地には民権期に作られた「山嶽倶楽部の旗」が保管されている。(藤原和雄・記)
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